2011年9月5日月曜日

言葉を所持する権利について

僕はリアリティーのある話をするのがどうも苦手であるため、あんまり自分の経験から物事を話さないようにしている。
だけど、自分の身に実際に起きた事や体験した時にしか話せない言葉というのは確かにあって、それがリアリティーのある話し方というのに繋がってくる。
例えば、仕事をした事がない人と仕事を一年以上した人とのあいだには仕事という言葉の持つリアリティーがまるで違う。
僕から前置きとして一つ。リアリティーのある言葉を置こうと思う。

【僕の弟は馬鹿である】

本題に入る前に少しばかり僕の話をしたい。これはただ愚痴というか、嘆きに近いのだけど、ツイッター(この固有名詞が僕の話のリアリティーを濃くしている)のやりすぎで、僕はまるっきり文章というものを書かなくなった。
なので、今、こうして文章を書いていても上手く構成をまとめられないし、一文と一文のあいだが不自然な感じがする。だから、非常に稚拙な文体になっているのは否めないし、それは元から僕に文才がないとかそういう話ではなくて普段からツイッターばかりやってると自分だけで他人の文脈を混ぜないで一人で文脈を作っていくのが難しく感じる。この一連の、一種の、文章能力の劣化について話がしたいと僕は考えている。

僕の弟は地元である青森県弘前市でサラリーマンをしている。趣味は剣道で、中学から社会人の今に至るまで飽きずに続けている。
そんな弟が着ているTシャツに僕の目線が止まる。
左胸のワンポイント部分に平仮名で小さく“う”と書いてあるのだ。
『おい、弟よ、貴様の衣服の胸に付いている“う”とはなんなんだ?』と彼に問うとこんな事を言い出した。
『剣道の先生が“う”を持ってて、それをみんなに分けてるんだよ』
『いやいや、“う”を持ってるってなんだよ!“あ”とか“ん”とかはじゃあ誰が持ってるんだよ。つーか、日本に50個くらいしか存在しないものの一つを持ってるっておめーの先生何者だよ?なんで言葉を所持する権利があるんだよ?』
僕は笑うしかなかった。
『よく分かんないんだけど、先生が“う”を持ってんだよ……』と弟はそれしか言えない。
弟は“う”を持ってる先生を知ってるけど、“う”が何なのか分からないから、人にそれを伝える時にリアリティーが薄くなる。
そんな話を僕がするとそれはさらに希薄する。

でも、これだけは伝わったと思う。

【僕の弟は馬鹿である】