2013年4月15日月曜日

蝋燭が嫌いな理由


寒さに強い人を見ていると、『どうしてあの人みたいな体感世界で生きられないんだ』と憤慨しそうになる。もう四月の半ばだ。僕は池袋の北口から出る時に、大都会という居酒屋の看板を眺めながら思う。
厚手のノースフェイスのアウターを着て、ジッパーを一番上まで上げている僕に対して、豊島区の中高生たちはセーラー服かブレザーか学ラン、その上には何も羽織っていないし、スーツを着た営業マンは、スーツの上に何も着ていない。僕の思うこの肌寒さは、なんなんだと自分だけ損をしている気分になる。同じアパートに住んでいるのに他の住民よりも管理費を多く払わされているような気分だ。
太陽は出てるし風もそこまで冷たくないけど、さすがにパーカーだけで家を出る気にはならない。帰り道に寒さを後悔の材料にしたくない。そんなカレーライスなら冷蔵庫に仕舞って明日食うわって具合に。
こういう気持ちがこの先、毎年毎年続くかと思うとうんざりする。
というか、頭に浮かぶ様々な事柄をいちいちこの方程式に当てはめてると本当にうんざりする。
この先、毎年毎年続くかと思うとうんざりする。
こうやってネガティブな僕たちは枯渇していくのだなと、思ってしまう。これに気付いた僕はもうこの時点で負けなんじゃないかと。この敗北感は毎年毎年変わらないだろう。
ところが、この敗北感に火を付けてみよう。『やってやるぜ!』って。ハートに火を付けてみる。
すると、びっくり。敗北感が少しずつ減っていくではありませんか。
火が付いた敗北感が毎年毎年減っていく様を想像すると、数年後に残る虚無感に吐き気がする。だって、虚無感には火が付かないからね。寒い。
だから、僕は蝋燭が嫌いなんだ。

その温度計を割ったら中の液体を飲み干そうとする


融通性がないなんて事が自分以外にある時に思う『いいじゃん』って気持ちを、サンタクロースの不在を子ども達に伝えるように、伝えなくても伝わって欲しいなって思うけど、なかなかそうもいかない。不在証明書が発行されてない家の玄関で『留守ですね』なんて言えないふざけた気分の中で、『いいじゃん』が駄目なら自分に対して『ま、いっか』を使う事になる。融通性がない人の言う事をいちいち気にする必要はない、たまたま相手が神経質すぎただけだって。『ま、いっか』
『『あいつの言う事だから気にしなくていい』なんて思ってる人間は一生進歩しない』って言われた。
僕からは何も言っていないけど、サンタクロースの不在を伝えるように、わざわざこっちから伝えなくても伝わってしまったみたいだ。
面倒臭いことこの上ない状況になってしまった。融通性がないという事は、論理の中において正しいという事で、大して頭の良くない僕は、正しさに正しさで勝負する気分になれず、とりあえず自分が悪いという事にしておこうとなるのだけど、本物の面倒臭さはこの後に訪れる。しかも、敵は我なりである。
気にしなくていい事を気にしてしまう。もしかして、自分は本当に根本的に間違っているのではないかと。勘繰りが始まる。しかも、典型的な『いいじゃん』人間の僕がその非論理的思考から明確な正しさを導き出すのは、水銀の一気飲みを論理的に肯定するくらい無理がある。
理路整然とした話ができない。という点が根本的に駄目なのだろう。そうに違いない。こんな風に自己批判に辿り着くわけだ。ところが、頭の良い達はいちいちそんな事を気にしないで、絶妙のタイミングで『いいじゃん』を使う。ゴエモンインパクトのキセルボムを使うタイミングみたいに。ロックマンのE缶を使うタイミングみたいに。そういう所が駄目なんだろうなと自覚するわけだ。
でもね、そんな事すら別に『いいじゃん』って思う。
困ったな。逆に妥協したくない事を考えた方がいいかもしれない。アパートを借りるならユニットバスは絶対に嫌だ。みたいな。別にそれくらい『いいじゃん』
いいや、よくない。って。
そう思えるようにして、そういうポイントの価値観の周りの人間と同じくらいの神経質さに変換できれば、同じ目線で同じ生理的な気持ち悪さを抱えて生活をできる。
幸せとはそういう事だ。身近に自分より融通性がなくて、神経質な人間がいない事が幸せだ。
気にしなくていい。
そんな上がり下がりする温度計なら割ってしまえ。
いっそかち割ってしまいたいね。
割り切った関係を一気に飲み干して死ぬんだ。クソ。