2015年5月20日水曜日

5thホイール2ザ・コーチ

AM0:00

人生が夜の十二時から始まって翌日の十二時で終わるものだとしたら、僕の人生なんてまだ夜明け前です。

それにしても気持ちというやつは大事な大事な集中力を奪い、何かにつけて邪魔をしてくる。
例えば、『宮本から君へ』という漫画に「人は感動するために生きてる」という台詞がある。
気持ちが平穏な時の僕はこの漫画を読み、気持ちが揺さぶられ「人は感動するために生きてる」というフレーズを座右の銘にしたいくらい感銘を受ける。
ところが、気持ちが斜め下に傾いていたり、iPhoneで音楽をシャッフルで聴いている時になかなか一曲ずつ集中して聴けなくて、次曲にスキップばかりを押し続けて落ち着かない気持ちの中にいると。
「「人は感動するために生きてる」なんて言ってる奴を僕は軽蔑する」という独白が心に浮かんでくる。
本当に困った事に筋の通った人生哲学など絶対にあり得ないのだ。

珍しくどうしても妥協できない事があって、それをラブレターの返事を待つように口にしてしまったら、沈黙を守られてしまう時の感情のせいで、せっかくの眠れそうな夜を台無しにして、聴きたい音楽も見つからず、観たいテレビもユーチューブも見つからず、携帯電話を無心で弄るのも嫌になってくる。

私って変ですか?
ネット上でそんな確認を他人に繰り返す孤独感は変じゃない。
こういう事がありました。おかしいのは私なんでしょうか?
場合によっちゃ、そうだよお前が絶対におかしいって即断できるけど、本当に自分がおかしいのかわからない状況になったら、ってそういう類の冷静さは後から思い返すとやっぱり笑っちゃうくらいに当たり前に感じたりする。
こういう気持ちが徐々に風化していくなら、やっぱり今は深夜なんだって思う。
判断能力が鈍くなってる深夜だと。

朝が来たら朝が来たで朝がぼんやりして頭が回らない。
人生は夜の十二時から始まって、「一睡もできないまま」で翌日の十二時に終わる。
だから、徹夜明けの昼間なんて意識が朦朧としてるに決まってる。
今は徹夜明け前の夜明け前。
少し眠いけど意識ははっきりしてる時間。
せっかく時間があったのに勉強もできず、睡眠もとれず、創作もできず、後悔みたいな奴を首に巻き付けてる。

そして、そんなラブレターみたいな奴の返事が来てみたら、別にそんな悩むほどの内容じゃなくて肩透かしを食らった気分になる。
そんな感動のために生きてるのかと思うと、それが良いのか悪いのかすら判断できなくて、誰かに確認してみるけど、また返事が来なくなって、それを繰り返す。
大丈夫か、この思考回路。
承認欲求があるんだろうか。
なんという自分語り。
つまりこれはあれだ。自分の曲のプリプロを聴いてる時みたいな正常にこれが良いのか悪いのか判断できない感じだ。
プロはそこを判断できるんだろうけど、僕はできないね。

夜明け前だからしょうがない。
そうに決まってる。
今日の夜にはきっと呆けちゃってるんだ。


AM8:00

2015年5月18日月曜日

ドッジボール・キャノンボール

ドッジボールが始まってすでに三十分は経過したと思う。
内野は僕一人となってしまい、ボールをひたすらに避けながらiPhoneで下向きにこの文章を書いている。
僕が一向にボールをキャッチしない事に味方側の外野が舌打ちをしている。
人生を豊かにするために僕はそれを全く気にしないのだ。

さて、そんな僕が今にもボールに直撃されてiPhoneの画面にヒビを入れてしまいかねない状況においても、こうして打ちたがる文章とは何なのか。
家に居て寝転んでしまうともう何もかもやる気が出なくなってしまう。
だから、やる気があったとしても亀が首を引っ込めるようにその姿を確認できない。
そういう意味で今のこのドッジボールの球を避けている状況こそが素晴らしき集中力を生み出しているのだ。

自分の好みとか価値観がはっきりしている事に違和感のある僕は、今日もどっちつかずの人生を歩んでいます。
人生論なんか語るな。
自分にそうやって言い聞かせています。
こうやってドッジボールで最後まで残ってる自分って特別なんじゃん?って一切考えないようにして。
何者でもない事への喜びを綴れる分だけ綴ってしまえ。と。

トラウマって程じゃないけど、瞼の裏に焼き付いて、思い出す度に少し気持ちが落ちる映像ってのが幾つかある。

まだ小学校に入ったばかりの頃に、一回だけ夜更かしをした事がある。
確か午後十一時くらいだったと思う。
僕は猫背のままテレビを眺めていた。
子どもの僕が興味をそそられるような番組はやってなくて、病名は知らないけどとにかく闘病してるおじいさんのドキュメントでチャンネルは固定されていた。
そのおじいさんは喉に大きな穴が開いていてそこに管を通されていた。
子どもながらにショッキングな画だった。
しかも、水泳が趣味だと言って喉に専用の管と機械を巻きつけて、プールに飛び込んだりしていた。
喉に大きな穴があって、泳いでいる。
それが妙に怖くて僕はその夜、全く眠れなくなってしまった。
だから夜中にテレビを観る事を一切やめた。
トゥナイト2とワンダフルに興味を持つまではやめた。

あと、こんなのもある。
これは割と最近の話だけど、妻に先立たれたおじいさんのドキュメント。
(つーか、おじいさん多いな)
今住んでいる借家は来年の春に返さないといけないらしく、住む家がなくなるという。
おじいさんは毎日、妻が演劇をやっているビデオテープを繰り返し観ているらしい。
細かい内容は忘れたけど、だいたいそんな感じ。
僕が鮮明に覚えてるのは別の場面で、それは食事風景だ。
そのおじいさんは毎日、白ごはんに牛乳をかけた牛乳ごはんを食べるのだ。
その食べてる姿がなんでかショッキングに感じてしまって、忘れたくても忘れられない。

別に共感を求めてる気は全くないけど、そういうなんか心に引っかかって、妙に溜息っぽくなってしまう場面があるのです。

今んところ、僕を撮るドキュメンタリーは存在しない。
何者でもない事への喜びを今の内に堪能しなくちゃいけない。

そう言えば、ドッジボールで思い出した。
小学生の頃、ドッジボールは首から上に当たったらセーフというルールがあって、みんな首から下を狙うように球を投げていた。
誰だったか忘れたけど、運動神経のいい奴が全力で投げた球が、女子の顔面に漫画みたいに直撃した事があった。
先生は彼女に対して「セーフ」と言った。
僕は「どこがセーフなんだよ?」と思ったけど言わなかった。
その直後の女子の泣き声が尋常じゃなかったのはよく覚えてる。
結局、保健室に連れて行かれたから彼女はセーフにならなかった。
後々、聞いた話によるとそのぶつけられた女子はぶつけた男子に片想いをしていたらしい。
こういう細かい所は覚えてるけど、それが誰だったのかはぼんやりとしていて思い出せないけど、まあそんな感じ。

それにしても僕は球を避けるのが上手い。
まるで当たらない。
球を避けるにはコツがある。
投げる奴の目線を気にしない事。
ボールだけを集中して目で追う事。
慣れてくるとこうやってiPhoneをいじりながらでも、ボールを投げてくるタイミングの法則性がわかってくれば、投げた瞬間にちょこっと移動するだけで避けれる。
靴と体育館の床にが擦れる音を合図にして、ちょこっと身体を逃がしてやるのだ。
それを繰り返すだけで、まあまあいける。
そして、たまに相手が手を誤ってワンバウンドさせてしまったらそれをキャッチする。
外野の人間が敵の内野に当てたらその人間は復活できる。
だから、外野はみんな僕にパスを乞うのだ。
利害を考えると外野が敵を一人倒して生き返れるのだから、2ポイント分のお得感があるし、敵も敵で外野を経由した攻撃しかこの場面じゃあり得ないと思っている。
だから、僕は左サイドの外野に向けて身体をねじり、パスをするのとおんなじフォームで目線は外野に向けたまま、敵の内野にボールを投げる。
すると、意表を突かれた敵は簡単にキャッチできるはずの僕の肩力のない投球にすらアウトをとられてしまうのだ。
ただ、その後は敵の内野からボールが始まるので、外野の味方からブーイングの嵐だ。

そんな事とは特に関係なく、僕は手を滑らせて機種変更を済ませたばかりのiPhoneを床に落としてしまった。
メジャーレーベルから出てるフルアルバムを一枚買えるくらいの値段の保護フィルムを貼っていたおかげで、少しだけヒビが入る程度で済んだ。
と、ポジティブに捉える事は可能だが、本音を言えば買ったばっかのiPhoneに傷が付いてとても悲しい。
人生を豊かにしたいけど僕はそれが気になってしょうがないのだ。